昭和50年05月03日 朝の御理解



 御理解 第21節
 「信心せよ。信心とは、和賀心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし、カンテラに油いっぱいあっても芯がなければ火が燈らず、火が燈らねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり」

 信心なければ世界が闇。信心を只頂いておる。しておると云うだけではなりません、信心によって真の光を頂くと云う事です。信心の光を頂くと云う事です。だから暗い思いをせんで済むのです。信心しておれば明るいと云う事はありません。只おかげ信心ではおかげ受けた時は明るい、おかげでないと思うたらもう暗くなる、そういう信心ではない。信心なければ、信心があれば世は光に満ち輝いた世の中になる。そういう例えば信心とは、銘々の心の中に信心の光が伴わなければならない。
 信心の火が心に灯るという事はどう云う事かというと。昨日私はここで頂いた事の中に、音楽は天地の正気に一致すると云う事。音楽は所謂妙なる調べとでも申しましょかね、音楽というのは兎に角天地の正気に(正気)とは正しい気と書いてある、天地の正気に一致する一つになると云う事である。淫らな音楽というのがやっぱりありますよね。淫らというと一寸語弊がありますけれども、神前で奏じます例えば此処の雅楽ね、の様なもの篁、篳篥、笛、太鼓、言う様なね。
 又は琴と神前にお供えをする言うなら音楽、それは天地の正気に一致する、通じるというんです。私は是を頂いた時に確かにそうだろうと思いますね。そういう意味で私はもう一心に篁なら篁、篳篥なら篳篥を神前に一心不乱に奏上したら、もうそれが神様へ通うて行くと人心無雅例えば琴なら琴を神前に奏する、それは何よりも天地の正気に通ずる事であろう、一致する事であろうと思われます。そこで私達が此処で思う事はですなら私共の心も神様の心に一致する所まで行かなければ光は頂かれません。
 私共の心が天地の真に通ずると云う事。どう云う時に天地の真に通ずるかと。福岡の三吉木辰次郎先生がよくお話になっとりました。或る難儀な問題の時に、どうしてもおかげ受けなければならない。それでそれこそ夜な夜な先代の奥城にお参りをなさった。そりゃー遠いですからね随分。そして山の一番頂上に高い山ではありませんけれども、私も福岡で修行中に随分お山に登らして貰ました。
 その奥城で皆んなおかげを受ける。金光様の信心をしとらん者んでも、あの界隈の人達はそのー奥城でおかげを受けたんです。ある夜もうそれこそ一心不乱に奥城で御祈念をなさって居られたらね、神様のお声を受けられた「吉木辰次郎の心、天地の真に通ずるぞ」と言うお声を頂かれた。吉木辰次郎の心天地の真に通ずるぞと、もうそれこそ座ってこう御祈念をしておられるその本当に何かこう、天地と自分の体が繋がった様な感じがしたと言うてお話しとられます。一心不乱そこで私は思うのにです。
 音楽は天地の正気に通ずるという、例えば成程そうであろう。純真無妙なるその音色と云う物は天地の真に通ずる。天地の正しい心正しい正気に一致する。そう云う時にです私は心に光が頂ける時だと思います。どの様なそれこそ不安焦燥、心配の時であっても天地の真に通ずる時にです、生まれて来るのが安心です心が明るくなるのです。真っ暗い所におるから、何か出て来るやらわからんという不安があるのです。心にパッと百燭光の様な電気が例えば燈ったらです。
 どういうそれこそ目の前が真っ暗うなる様な事に直面致しましてもです、心の光がパッと燈ったら怖い事ではない。只お礼を申し上げる事意外にしかないと云う様なおかげが受けられるのです。そこでなら思われる事はです、例えばなら楽器なら楽器、例えば篁なら篁篳篥なら篳篥でもです、只むやみやたらに吹いたから奏でたからというて、天地の真に通ずると云う事ではないと思うです。所謂妙なる調べでなからなければならないと言う事です。琴なら琴を弾ずる。
 只いきなりにそのそれを弾いたのではいけない。まず調子が合っておらなければならない。同時に楽譜なら楽譜と云う物に、間違ってはならない。只音楽は天地の正気に一致するもですけれども、その音楽はです妙なる物で無からなければ成らないと云う事です。妙響と自分の心の中に有難い勿体ない、それに浸っておれる様な時、悪もなからなければ蛇もない。自分の心の中に改まりに改まり、清まりに清まったその心の中から、祈りの言葉が生まれて来る。神様の心に叶う祈りが出来る。
 神様が聞き届けて下さったと云う気がする。天地の真に一致したのです。そう云う意味で自分の心を整えると云う事、自分の心の調子を整えると云う事が如何に大事かと云う事が解ります。心が乱れておってはなりません。同時に心の調子と云う物があったら、それを奏でられる技術が必要なんです。先ず楽譜を見るそれを奏でる。只笛なら笛を只ピュ-ピュ-吹いただけではいけん。一つのリズムが流れる素晴らしいリズムになったその音響、その音楽であってこそ、天地の正気に一致するのです。
 同んなじ道理です、私共の心の調子が何処に合わされるかと、先ず御教えを頂く事そしてその御教えに照らし合わせてです、自分の心を合わせて行く。皆さんがなら腕時計をはめておられる。御広前の時計に何時も合わせている。御広前の時計が正確無比であればね、ある程皆さんの時計はその時計に合わせられて行かなければならん、一分一厘の間違いのない働きを、又生活の上に現して行く事が出来る。我流ではいけん。
 合わせて行くお云う事が私は、調子を整える事だと。朝お参りをする御教えを頂く、そして成程だと合点の行く、その心とその御教えと心が一致する。今日は是で行くぞと云う生き方にならせて頂く時にですね、それこそ妙なる音色というかね、その音色に誘われる様におかげの道が開けて来るね。其処の所の絶対信、其処の所が信じられる心こそがです、世界を明るくする原動力ともなる。
 光ともなると私は思います。只信心をしておるから拝んでおるからね、世の中が明るくなるというのではありません。まずは自分の心が明るくなり家庭が明るくなりね、それが社会にも貢献出来るおかげになって来にゃなりません。どんなにカンテラに油が一杯あっても、この世の中にどうの様なお恵みが一杯、遍満しておりましてもですおかげはそれこそ降る雨の様に、降る様にあっておってもです、こちらに受け物が無かったら受けられない。氏子に信なければおかげはなし、信ずる信と云うのが書いてある。
 火が灯らなければ夜は闇なり。私共が何時も昼ばっかり過ごす訳にはまいりません。昼があれば必ず夜がある。言うならば降る事もありゃ照る事もある。そう云う時に私共の心の信、言うならば信心の信、神様を信じて疑わない信、又は天地の真に一致する心の状態と云う物が要るのです。信心しておりゃ何時も昼ばっかりと言う事では決してないのです。もう手探りせねば解らない様な時がありますね。
 だからそう云う時にです、私共は心の調子を愈々整えさせて貰う、そこから日頃頂いておる御教え、言うならば楽譜を見ながら奏でて行くと云うかね吹いて行くと云うか、そこから妙なる音色が生まれて来るね。例えば痛い時には痛いけれども有難い。この真っ暗の中にです、不自由をせんですむ心の動きというか、心のおかげを受けさせて頂くと云う事はです、所謂信心のおかげだなと思わせて貰う。
 そういう信心でなければ私は、世界が暗くなり信心なければ世界が闇なりと言われるのは、そう云う信心でなければ世界を明るくすると云う事は出来ないと思います。只何とはなしに漠然と愈々の時には、神様が御座るからと云うのではなくてね、それを常日頃その確信が持てれる信心を頂いておくという事。只どう云う素晴らしい楽器でありましても、調子も整えず只ね、がむしゃらに其れを弾きたてたり吹きたてたりしたからというて、天地の正気に一致すると云う事ではない。
 調子が整えられてその楽譜の通りに弾かせて頂く、吹かせて頂く所に妙なる音色が生まれて来る。その妙なる音色が天地の正気に一致するのです。言うなら神様との言うなら交流がなされる時です、そう云う時にどう云う府安であっても、心配であっても、それこそ目の前が闇になっても、生まれて来るのは安心であり喜びであります。そう言う所を私は、神様は世界は闇なりと言われる。なら世界を光に包むと云うかね、明かりに潤うて行くと云うおかげを頂く為に教えておられる。
 信心せよ信心とは和賀心が神に向かうのを信心と云うのじゃと云うのは、今日私が皆さんに申しました様な信心に心を向けた時、成程心の調子を整える事だ、愈々清まる事だ、改まる事だと云う事に心を向けた時、それが始めて信心だ。只神様に向かって手を合わせた時と云う時ではない。和賀心が神に向かうと云う事は向こうて進んで行くと云う事なのです。一歩一歩ね。ですから本気で清まろうと私は発心した時に、もう既にあなたは信心だと云う事になるのです。
 本気で先生の言われる通りに、教えを頂けば頂く程、改まらなければならない事の多いのに気が付かせて貰うて、一つづつでも改まらして頂こうと一心発起した時に心は神に向こうたのです。そういう向こうて進んで行くうちに、今日奏でる方法を覚える事であろう。調子を合わせるいうならば、よいリズムの生まれて来る、調子が整えられる事を覚えて行く事になるのです。信心の稽古はそう云う様な私は事だと思うです。
 神徳の中におっても氏子に信なければおかげはなし、神徳の中に浸っておっても、神徳を神徳と感じ取きらなかったらおかげではない。その為には愈々ね、研く事やら改まる事言うなれば我情我欲を取らせて貰う生き方を身に付けて行くという事です。音楽は天地の正気に一致する。勿論音楽という事は妙なる調べ妙なる音響、一つの素晴らしいリズムになって、流れて来るものそう云う意味です。
 そう云うものが天地の心、神様の心に一致するというのです。だから私共の心もです一つの楽器に例えさせて貰うて、その楽器の手入れこそ又はその調子を合わせる事又それを覚える事。楽譜を覚える事それを練習する事成程一生がかりで稽古をさせてもらわねはならない事がよく解りますね。容易い簡単な例えば、それは音楽であっても、単調であっても短いものであっても、調子が合ってのそれであったら、神様へ通う。
 それを稽古さして頂く内に、どう云う難曲でも弾きこなせれる。どう云う問題に直面しても有難しと受けられる心、そう云う心こそ神様の心と一致する心なんです。今こそ私はね、本当の信なければ世界は闇なりと仰る、本当の信心なければ世界は闇と仰る。真の信心が今の時代ほど要求されておる時はないと思う。先ずは私共の心の中に、私共の家族の中に周辺に、信心の光を放って行かなければならない時だと思います。
   どうぞ。